これが、夢だったら。

これが、夢だったら。

太陽が高く昇る昼間でも牢のように薄暗く、埃っぽくてじめじめした部屋で、于禁は薄い着物を着てジッとしていた。だがそこは本当に牢のようで、簡素な寝台と粗末な机と椅子と、古びた扉がある部屋だ。そして部屋の外の廊下は人通りが普段から全く無い。とても静かで何もないところだ。
于禁はそこで特に何もすることもなく、何も喋ることもない。ただひたすら椅子に座り、どこかに視線を置いたままだ。それを一日中、焦点が合わず光の無い瞳で。なので時折、それを見た兵たちの間で「まるで亡骸のようだ」と囁かれていた。
それは呉から魏に帰国して暫く経過した後から今までずっとその様子だった。そうなってしまったのは、周りからの于禁の扱いが酷いのもそうだがもう一つ、最大の理由がある。それを察している人間は一人も居ないが、夏侯惇の死だ。于禁は夏侯惇の死に目に逢えなかったうえに墓前に立つ勇気が無かった。というより、墓前に立つ資格が無かったと言うのが正しいか。生前は会うだけのタイミングは幾らでもあったのに、夏侯惇の姿すら自ら見なかった始末で。
夏侯惇が死んだ直後は自分の何もかもが情けないと思ったが、今は開き直っている。そんなのは「仕方がない」とひたすら。
于禁は毎日毎日、月が沈み太陽が昇るのを繰り返す度にそう自分に言っていた。

于禁の胸中でまたいつものようにそう開き直っていたある日、自分の中で何か違和感があった。何かは分からないが、とてつもない違和感だ。于禁は久しぶりに首を傾げていると、扉からドンドンとノック音が聞こえてきた。誰かが訪ねて来たようだ。
普段は滅多にノック音が聞こえて来ないが何だろうか。それにだが、衰えた体では即座に何か反応をすることができない。なので椅子から立ち上がれなかった。だが数秒遅れで返事をすると、扉が開いた。于禁は久しぶりに声を出したので、人間らしいまともな返事ができているか分からないまま。
『元気か?』
訪ねて来た人物は、夏侯惇だった。それも樊城の戦いの前の姿の。于禁は目を見開くが、即座に幻覚だと思った。だがそれでも、例え幻覚でも夏侯惇に短い返事をする。
「はい」
『それならよかった』
幻覚の夏侯惇の表情は穏やかだった。
『お前が元気なら安心した。それなら、またお前と話したい。……近いうちにな』
表情を崩さないままそう言うと、夏侯惇は部屋を出る。扉が閉まると于禁は数年ぶりの涙を微かに流し、扉の方へと衰えてしまっている右腕をゆっくりと伸ばした。
「待っていて下さい、夏侯惇殿……」
于禁の伸ばした右腕は、そう言った直後にがくりと落ちたのであった。