約束の痕 - 1/4

とある国の話である。
この国は大きく、何もかもに恵まれ、そして軍事力は強大であった。
その国の周辺には小国が幾つもある。しかしそれらが結束して戦うと負けてしまう、そのようなことが起こる可能性がある均衡を保っていた。しかしその国は周辺の小国の幾つかと同盟を組んでいるので、均衡が決壊する可能性は低いだけだが。
しかし小国を挟んだ場所に位置する、同じ規模の大国の存在だけが大きな懸念となっていたが。

この国の木造の大きな軍事施設のとある広い議事堂にて、少尉相当までの階級の者が集められて現在の状況を説明がされていた。大将の階級の上官曰く、同盟を組んでいるとある一つの小国が、寝返る可能性があるので警戒して欲しいと。理由はこちら側への武器支援がやけに多いからだ。それも、理由はちぐはぐだ。なので少しでも怪しい動きがあれば連絡をすることと。
上官がそれをかなり手短に話し終えると、この場に居る意味はもう無くなった。なので集められた者たちはそれぞれの持ち場、あるいは近辺での任務に戻っていく。一部、作戦の為にこの場には居ない者も居た。その者達には帰還してから連絡するらしいが、その作戦の目的地がその寝返る可能性がある小国周辺である。
それに、作戦を遂行しに行った者たちが進んで作戦を提案し、実行していた。この場ではまだそれなりに低い階級の男が、ぼそりと呟く。
「その者たちが、一番怪しいのだがな」
その呟きは議事堂を出ていく雑踏等で搔き消される、と呟いた本人は思っていた。しかしたまたま聞こえたらしい、その男よりも一つ階級の低い男が険しい顔で異論を唱える。それは黒を基調とした軍服の左胸部分に着けてある、階級を現すバッジで分かったのだが。
「だからと言って、決めつける形で疑ってはなりませぬ、夏侯惇大尉」
「何だ于禁中尉、聞こえていたのか」
大尉の階級を持っている隻眼の男である夏侯惇と、それよりも背のある中尉の階級の男である于禁は睨み合う。互いにあまり面識はなく、今までまともに口を聞いたことはない。なので今、初めてまともな会話をしたのだが雰囲気は最悪だ。
そこで近くに居た夏侯淵という、于禁よりも一つ階級が下である、少尉の階級を持つ男が仲裁に入ろうとした。しかし二人の雰囲気から、例え夏侯惇と従兄弟の関係であってもどうにもできないらしい。溜息をつきながら、二人の行く末をただ見ていた。
「たまたま近くに居たもので」
「そんなもの、ただのぼやきだ。聞き流せ」
「惇兄……! それに、于禁中尉も……!」
夏侯惇が面倒そうに言いながら舌打ちをすると、于禁の普段から深くなっている眉間の皺が更に強調される。夏侯淵はそれを見てまずいと思いようやく慌て始め、この場をどうにかしようとしていた。だが于禁はどうにも夏侯惇に噛みついて来るのか、引き下がる気は無いようだ。
そこで夏侯淵は二人をどうにか宥めようとしたが、その必要は無くなった。ただ単に、夏侯惇が噛み付いてくる于禁から引いていくのみで。
「そうはなりませぬ。何も証拠が無いと言うの……」
「分かった分かった。俺は忙しいから任務に戻る」
于禁が反論を本格的に話し始めようとした。あまり面識がないとは言え、夏侯惇は于禁がかなりの堅物だということくらいは知っている。なので更に面倒そうな顔をした後に、適当な言い訳をしてそれを断ち切った。本当は、今日は時間に余裕があるのだが。
何か言いたげな様子の于禁は機嫌を悪くしながら「そうですか」と言うと、二人は議事堂を出てそれぞれの場所へと別れたのであった。夏侯淵は夏侯惇に着いて行き、雰囲気を明るくする為に他愛もない話を始めていたのだが。

それから数日後、作戦から帰還した隊員たちはすぐさま大将の階級の上官の執務室に呼び出された。白か黒かを判断する為に。
帰還した兵たちの報告の結果、小国に怪しい動きは特に無いらしい。それに武器支援をしていた理由を、その小国の諜報員から領地外にてこっそりと文書により手渡されていた。
それは小国の大統領と防衛大臣直筆のもので、紙の方が抜群に秘密性が高いからという。内容は、その小国と同じ規模の隣国に小さなちょっかいを出されているというもの。ちょっかいを出している小国とは同盟関係にはないので、この国が小国の支援をする理由の正当性は充分。
大将の階級の上官はそれを読むとすぐさま、その者よりも上の階級の上官に文書の存在を伝えるべく執務室を飛び出して行った。帰還した兵たちは上官からの潔白の言葉を待っている。にも関わらず執務室に放置され、その者たちは酷く困惑していたが。
それを聞いた軍全体は小国への嫌疑が晴れ、そして警戒対象はその小国の隣国へと変わっていった。
またしても前回と同じ議事堂に、に同じ顔ぶれの者たちが集められ、そのような報告を受ける。すぐさま集められた者たちは敵の存在を確定させた。なので皆、眼を鋭くさせている。
それぞれの役割に戻ろうとこの広い部屋を出ようとしたところで、今は一人の夏侯惇は于禁を見つけた。自身よりも身長が少しばかり高いので、すぐに分かったからだ。于禁の方へと歩み寄り、話し掛ける。
「俺が、間違っていたようだな。すまん」
「……夏侯惇大尉」
一瞬だけ、于禁は夏侯惇を睨んだ。夏侯惇からは于禁を挑発するような言葉が出てくると勘違いしていたらしい。その睨ませている眼をどうにか抑えた後に、少しだけ眉間の皺を薄くさせる。
「私こそ、上官の貴方に無礼な態度を取ってしまい……」
「分かった分かった。俺は気にしていない。ではな」
于禁から必要のない謝罪が来ると予感したのか、夏侯惇はそれを面倒そうに打ち切った。于禁は再び眉間の皺を深く戻していくが、夏侯惇はそれを無視して任務へと早歩きで戻っていったのであった。軍服に着けている、于禁よりも多めのバッジを、大きく揺らしながら。

幾つか日が過ぎると同盟を組んでいる小国の隣国から、ひっそりと攻撃を仕掛けられた。しかし作戦は既に練っているので問題はない。同盟を組んでいる小国の近隣に、兵を何百人も潜伏させているのだ。何日も前から、少しずつ。その小国の、平和な街の中心部へと暮らし始めた移民を装う隊員。それに観光客になりすましている隊員が居た。隊員たちはそれぞれの役に徹する。その国の市民から、役割が発覚されないように。
小国の領地に敵兵が攻めて来るが、見えるのは全て迷彩服を着た大勢の歩兵。静かに侵略しに来たので、平和な光景に相応しくない銃を構えている。
同盟を組んでいる小国は、基本的には隣国とは特に敵対関係を昔から築いていない。なので国境地帯には関門などが無く、容易く国へと侵入できている。
潜伏していた兵がそれを見ると、兵を素早く倒していった。ある隊員はこっそりと隠し持っていたサイレンサーが装着してあるライフルの引き金を引き、ある隊員は近接格闘術で、生きている敵兵を死体に変えていく。するとこの街が、すぐさま血が流れる戦場になっていく。市民の穏やかな喧騒が、悲鳴に変わっていく。
その役割の中には于禁も含まれていたが、場所によってはかなり熾烈を極める状況となっていた。于禁やその他の数人の隊員たちはその状況に居る。銃弾が飛び交うので物に隠れるも、いつの間にか敵兵に背後を取られてしまっていた。取っ組み合いになり、于禁は地面に叩きつけられるも何とか敵を倒していく。その目に何度も遭ってしまっていた。決して于禁が油断しているのではなく、敵側がかなりの精鋭を揃えていたからだ。
元の民間人は小国の軍や警察がすぐに安全な場所に避難させていたので、市民の負傷者は少ない。だが視界の端で味方と敵の死体をよく見かけるようになっていた。戦闘中に何度も、味方が戦死していく様を見ていたからだ。于禁はその中でも生き残り、敵兵の死体を更に増やしていく。だが味方の死体を見て、とても悔しく思い眉間が痛くなる程に皺を寄せていた。こちら側は劣勢ではないというのに。
すると味方の援軍が来た。それも、戦車や戦闘機で。
敵は歩兵のみなので、援軍のおかげで殲滅できていた。明らかな圧勝である。于禁と同じ役割の、数人の者が軍へと支援要請をしたのだろう。
返り血に塗れ、疲れた様子の于禁は道端にあるベンチにへたり込む。戦闘による緊張感など、投げ捨てながら。
すると利き腕がかなり痛いことに、于禁は今更になって気付いた。戦闘中に地面に叩きつけられたせいだろう。しかし最中はそのような感覚など少しも無かった。戦闘による興奮で、脳が痛みを消していてくれたのか。
すると前に戦車が一両通ると停まる。閉じていたハッチが開くなり、于禁が最近よく知るようになった人物が降りてきた。
「生き残ったのか」
ハッチから出て来たのは、軍服姿の夏侯惇であった。于禁のその姿を見るなりそう短く言う。
「……貴方こそ」
「俺は援軍で来たからな。近くにテントを張ったからそこで早く手当をしろ。腕を怪我しているではないか」
夏侯惇は于禁の利き腕を見て言い当てた。それを聞いて、于禁は大層驚いていたが。
ここは街の中心地である。周りには高さのある建物に幾つも囲まれ、その下には何車線もの道路が真っ直ぐに伸びていた。夏侯惇はこの先だと指を差すと、確かにテントらしきシルエットが見えるのを于禁は確認できた。
于禁は夏侯惇に対して礼を言うと、そのテントに覚束ない足取りで向かって行く。夏侯惇はそれを少しの時間だけ見送った後に、戦車のハッチに再び入って行った。戦車で、周辺の見回りをする為に。

小国を守り、撤収したが軍医からの診断の結果、于禁は利き腕を骨折していた。激しい戦闘が原因ではあるが、自身を戒めるように骨折していない腕で射撃訓練を完全にとは言えないもののこなす。
内容は全員に支給されているライフルで、数メートル先にある対象物に目掛けて発砲すると言うもの。それも座ることや伏せている体勢ではなく、立ってこなす。軍医からは、そのようなことはなるべく控えるようにと言われているのだが。
屋内の射撃場で射撃訓練をし終えると時刻は既に夕方。于禁が訓練の悪い結果ひしかめっ面をしているところで、夏侯惇が入って来た。だが于禁の射撃訓練の後の様子を見るなり、呆れた表情をする。于禁の射撃訓練の結果が、あまりにも散々であるからだ。
「腕が治ってからにしろ。時間と弾の無駄だ」
「しかし……!」
「お前は先日、一番激しい戦闘区域に居たのだろう? 他に居た者も怪我をしているのを知らないのか? きちんと、怪我の回復を待っている者が居るのを知らないのか?」
夏侯惇の言う通りであり、于禁は知っていた。同じ戦闘区域に居た者たちが、訓練を一時的に止めていることを。しかしあの戦闘で死んだ者を思い出すと、于禁は苦しかったのだ。いつもはそのような思いをしている訳ではないのだが。
あのときどのような行動を取っていれば、零とは言わないものの死者が最小限に抑えられたのかと考え続けてしまう。いわゆる一種の強迫症に囚われていた。恐らく、一時的なものではあるが。
「…………」
「……仕方がないな。ほら、俺に少し付き合え」
夏侯惇がそう言いながら、早くと急かす。なので于禁は渋々と言ったような表情で、訓練に使っていたライフルを置いて、夏侯惇の後ろを着いて行ったのであった。

着いた先は、夏侯惇の私室である。于禁にも私室が用意されているものの、夏侯惇の方が階級が上なので広さがあった。ベッドとその近くの棚と机と本棚があっても部屋の広さに余裕があり、更に個人用のシャワールームまである。于禁の私室は階級からして、広さに余裕が無いうえに個人用のシャワールームなどない。
それに上官の私室に今まで一度も用が無いので入ったことの無い于禁は、ひたすら驚く。
「そこまでか」
夏侯惇は笑いながら軍服のジャケットを脱ぎ、ハンガーにくぐらせてから壁に掛ける。その後に椅子などは無いので、ベッドの縁に腰掛けた。畏まっている様子の于禁は、夏侯惇のその動作を見て余計に畏まっていて。
「あの、それで私に何か用でしょうか?」
肩の力が強張っている于禁はそう問い掛けると、夏侯惇は同じくベッドの縁野の自身の隣に座るように促した。
「お前は怪我をしているからあまり飲めんかもしれんが、俺は飲む。だから少し付き合え」
「い、いえ……」
「俺はお前よりも階級が上なのだがな」
「はい」
階級が上、という言葉を聞いた途端に于禁は素直にベッドの縁に小さく腰掛ける。夏侯惇とは、少し距離を取りながら。
ようやく言うことを聞いてくれたのか、夏侯惇は上機嫌になりながら棚から未開封の普通のワインボトルとグラスを二つ取る。ベッドの縁に座ってからグラスを一つ、于禁に渡すとワインボトルを開封した。ワインの豊かな香りが、二人を誘う。
「これを空けるぞ」
夏侯惇は楽し気な表情で、まずは自身のグラスにワインを上品にではなく、飲料水のようにただ並々と注ぐ。次に于禁のグラスにも、同じように注いだ。
「こうして誰かと飲むのは、久しぶりだ。いつも訓練ばかりで、空いた時間は疲れてずっと寝ているからな」
そして一気にワインを煽った夏侯惇は、ワインで満たされていたグラスをすぐに空にした。于禁はそれを呆然と見た後に、続けてワインを喉に流して空にしていく。
「……確か貴方は、元帥のご子息と昔から仲が良いのでは? その御方は?」
于禁の言う人物とは、曹操のことである。言う通りにこの国の元帥の息子で、将来は元帥となることが必ず約束されていた。そのような人物と夏侯惇は、幼馴染みという関係であるが。
「あいつは最近忙しくてそのような暇がなくてな、俺と話したり、飲む時間が無いらしい」
やれやれと言うような顔で、夏侯惇は肩をすくめる。于禁はそれを見てさらなる疑問が湧いた。
「では、何故私と?」
「たまたまだ。これも何かの縁だと思ってな。それに、お前は誰かとこうしてつるんでいるところを想像できなくてな、少し興味があった」
于禁は「私にですか?」と何も理解できない様子である。夏侯惇はそれを見て笑うと、空のグラスに再び水のようにワインを注ぐ。
ついでにと于禁のグラスに注ぐと、ワインボトルが空になった。
「これが空になったら、今日はもう寝るからお開きにするぞ。任務から帰って報告をして、休憩すらしてないからな。追い出す形になってすまんが」
「いえ、お構いなく。本日はありがとうございました。暫くは貴方のお言葉通り、訓練は程々にします」
今や肩の力が抜けている于禁は、グラスにあるワインを一気に煽る。そして敬礼をすると、夏侯惇の私室を素早く出たのであった。もう一度繰り返すように、礼を言った後に。

それから二人は時折、同じ任務などをこなすとその度に私的な会話をぽつりぽつりと交わす。仲の良い人物が居ない于禁にとってはこのようなことが初めてであるので、最初はぎこちなかった。一方で夏侯惇は交友関係が広いので、于禁とは同じ態度ではなかったが。
しかし何度か私的な会話を重ねていくうちに、于禁のぎこちなさは消えていく。夏侯惇はそれに気付くと、嬉しくなっていた。
それから暫くは、小規模な戦争や作戦に二人度々は一緒に参加していた。大したことのない怪我をしている姿を見ては夏侯惇は笑い、于禁は口角を若干上げる。時間が空くと夏侯惇の私室で他愛もない話をしたり、読んだ本の話をしたり、少量の酒を飲む日々が続いたのであった。その度に二人は、会話が尽きることが無かったのだが。