青い月 - 1/16

青い月『十六夜』

于禁は曹操に仕えたときからいつも常に孤立していた。戦の無いほんの些細な日常でも、常に一人で過ごしている。
なので于禁の軍が戦に勝った際の宴のときは、誰とも酒を交わさずに一人で別の場所へと移動し、静かな場所で酒を呑んでいるようだ。しかし他の人間たちはそれを気にすることもないし、寧ろ孤立してくれた方が好都合のようだ。要因は、厳格で融通の利かない人間性を嫌っていてか。
だがそれを遠くから見ている夏侯惇はいつも気にしていた。誰とでも仲良くとまではいかないが、せめて親交のある者はいないのかと思いながら。

ある寒い時期の夜で、于禁の軍による勝ち戦の宴が開かれる。この日の夜は十六夜月が雲で半分以上隠れていた。なのでか辺りは月明りが無いので暗い。
平服姿の夏侯惇は宴が始まるなり、片手で持てる程の大きさと重さの酒壺と盃を二つ持つ。そして宴が始まったときから既に居なくなっていた于禁を探すが、なかなか見つからなかった。探している目的は、于禁と酒を呑むために。
夏侯惇は于禁と純粋に仲良くしたいと思っていた。于禁自身が誰かと親交が無いから、と決して同情のつもりではなく。
それでも夏侯惇は于禁を探し続け、城内の至るところを探していくうちに、ようやく于禁を見つけた。場所は季節の花がよく植えられていているが城内では一番狭く、そして隅にある目立たない庭園だ。
于禁は既に落ち着いた着物姿になっていた。それに庭園の入口の構造からして、夏侯惇に背を向けている状態である。なので于禁は夏侯惇の存在に気付かずに庭園にある二人掛けの椅子の真ん中に座って一人で静かに酒を呑んでいた。夏侯惇はその背中を見て、少し寂しそうだと何となく思ってしまう。
「……ここに居たのか。随分と探したぞ」
夏侯惇は自分より少し大きく、その寂しそうな背中に話し掛けると于禁は振り返る。寂しそうな背中の持ち主である于禁は珍しくかなり驚いた顔をしていた。
「夏侯惇殿……!? 何故そこに……!?」
于禁はあまりの驚きに持っている盃を水平に保てなくなり、注いでいた透明な酒を溢しかけた。だがその状況でも拱手をしようとしていたが、それを察した夏侯惇が「無理にしなくてもいい」と止めたので于禁は盃を水平に何とか戻す。しかし少しだけ酒が溢れたようで、于禁の着物や地面が小さい範囲だが濡れる。少しの慌てた様子を見せた夏侯惇は謝ってから自身が携帯している手拭いを出そうとするが、于禁は自身の気が緩んでいたと返してそれを拒否した。
「分かった」と夏侯惇は溜息をつきながら手拭いをしまうと、于禁への用を伝える。
「お前と一緒に呑みたいと思っていたのだ。ほら、呑むぞ」
「……いえ、私のような者と呑むより、殿や夏侯淵殿などと呑まれてはいかがですか?」
誘われたのにも関わらず于禁は冷静にそう返すと、夏侯惇はムッとした表情に変わった。そして少し怒ったような声を出す。
「なぜ孟徳や淵と? 俺はお前と呑みに来たというのに」
夏侯惇は寧ろ于禁がしてきた提案を断る。なので于禁は自分の意見を渋々と言ったような態度で引き下げた。
「ですが……分かりました……」
于禁の仕方の無さそうな返事によりムッとした表情をすぐに引かせると、夏侯惇は呑むために于禁に詰めろと言い、二人で椅子に並んで座る。
他にも付近に二人掛けの椅子が幾つか左右にあるのだが、夏侯惇は于禁の隣に座りたがっていたらしい。于禁はそれを指摘しようとしたが、夏侯惇にまたムッとした表情に変えてまた何か言ってくるだろう。それが面倒だと思い、于禁は何も言わずに詰めたといった様子である。
だが二人で並んで座ると狭いのか、椅子の端の余分なスペースはあまり無かった。なので夏侯惇は「狭いな……」とぼやくと持ってきた酒を于禁に見せ、盃に入っている酒を飲み干してしまえと言う。于禁は再び渋々と言うとおりにすると、夏侯惇は空になった盃に酒を注いだ。だがそれは于禁が先程吞んでいたのものと比べると度数がかなり高いものだった。夏侯惇曰く、それより低い酒がちょうど切らしていたとか。
「夏侯惇殿、貴方に注がせる訳には……」
「気にするな。……ほら、注いだからには呑め」
于禁は盃に入った透明な色の酒に映る、自分の顔を数秒見るとそれを一気に煽った。それに続いて夏侯惇は自分の盃に酒を注ぐと、于禁よりもゆっくりと煽る。
それぞれ二杯目の酒が空になったところで、二人の間でゆっくりと時間が流れた。気まずさは、于禁にとっては多少はあるものの。
しかし庭園をよく見ると、狭くとも花が植えられてているおかげでそれは気にはならなかったし、空の見晴らしも良い。夜風が心地よく吹いている。まさに穴場といったところか。
ここに植えられている花はのエリアは椅子を座った視点からでは三つあり、形は全て正方形に沿っている。
それぞれ広さは同じ程で、だいたい二人が座っている二人掛けの椅子を横に二つ並べた程度の長さをしていた。その三つのうち二つは前に横に並んでおり、残りの一つはその二つのエリアの間の真後ろにあった。
前の二つのエリアには白色の水仙の花がたくさん植えられていた。一方の後ろのエリアの花は身長の高いものや大きいものでなおかつ、赤や青色などの目立つ色の花が数本植えられている。いわば前のエリアの花は後ろのエリアの花を補助的に彩っているのだろう。かなり狭い庭園だがそのような工夫を凝らしており、夏侯惇は感心した。あまり見ないような色の組み合わせだが、それでも視覚的に違和感はないと思いながら。
しかし今宵はせっかくの満月から欠け始めたばかりの月が、雲でほぼ見えないのでそれも同じ視界から見れないのが残念だが。
「生憎にも月は見えていないが、このような場所で誰かと呑む酒はいいな」
「そうですな」
「お前はいい場所を見つけたものだ」
夏侯惇がそう微笑むと、于禁の眉間の皺の数が微かに減った。夏侯惇からはそう見えた。
「前から私が気に入っている場所です」
そしていつの間にか于禁は、自身でも分からなくなるほどに口が軽くなっていたらしい。そう口を滑らせた。
相手が夏侯惇と言えど、あまりそのような発言をするのを遠慮していたのに。やはり、于禁自身の性格からしてあまり他人との親交を持ちたがらないのか。
于禁は一瞬だけ内心でハッとしたが、何とか顔には出さずに済んでいた。
「そうか」
空の盃を片手で持ちながら夏侯惇は上機嫌そうに花々を見た次に、于禁の顔を見て言葉を続けた。
「……そうだ、毎回毎回、騒がしいところで宴に参加するのは少し疲れてな。騒がしい宴より、ここで静かに呑む方が好きだ。ここは静かで綺麗な景色が楽しめるし、お前と話すのも楽しいし。だからこの場所でまた今度、宴でなくても二人で呑まないか?」
「えっ……?」
于禁は「話すのが楽しい」と言われ、思わず顔を引き攣らせた。恐らく人生で初めてかけられた言葉だからだ。それに今までは他人と、そのような言葉をかけられるような状況になったこともない。なので于禁は混乱した。夏侯惇は嘘などをつくような人物ではないので、本心であるのは確かなのだが。
「もしや迷惑だったか?」
次第に眉をハの字に下げる夏侯惇を見て、于禁は胸が痛くなった。おかげでそこで混乱は一気に消えたが。
「い、いえ……私で、よければ……」
「よかった。では、約束だ」
夏侯惇は穏やかな顔へと戻してから再び于禁の盃に酒を注ぐと、片側しかない瞳がちらりと于禁の両目を見やる。呑めという合図なのだろう。その時に微かに、夏侯惇の片眼に空に浮かぶ月の欠片が映る。それ見ながら于禁は「はい」と返事をするとぐいと一気に煽った。于禁本人はいつの間にか眉間の皺が先程よりもかなり減ったのも気付かずに。
「楽しみだ」
その様子を見た夏侯惇は自分の盃に酒を注ごうとすると、于禁が「次は私が」と言うので酒壺を渡す。そして于禁が夏侯惇の空になっている盃に酒を注ぐと、夏侯惇はそれをゆっくりと煽って空にしていったのであった。

それから数日が経った。戦況は落ち着いているので、城内は比較的静かで穏やかな空気である。その中で先日に引き続き、平服姿の夏侯惇は今日は休んでいるであろう于禁を私用の為に探す。
「どこにいる……?」
自分の足で城内の至る所を探し回っていたが、どこにも居ない。于禁と呑んでいた穴場である狭い庭園でさえも。夏侯惇はさすがに疲れてきたらしい。なのですれ違った人間に聞き回ることにしたが、誰も今日は見ていないという答えのみが返ってくる。今の太陽は既に高いところに居るというのに。
夏侯惇は溜息を深くつくと、あの狭い庭園が近くにあるのでそこで一旦休憩を取ろうと向かった。すると探していた人物はあっさりと見つかった。
「于禁!」
平服姿の于禁は座面の空いたスペースに竹簡を二つ程置き、先日のように二人掛けの椅子の真ん中に座っていた。そして名を呼ばれた于禁は振り返ると、驚きながら立ち上がって拱手をする。
「夏侯惇殿、いかがなされましたか?」
「少し前からお前を探していてな、今日は暇か?」
于禁は「私をですか……!?」と再び驚く。
「俺は、暇かと聞いているのだかな」
「いえ、時間は空いていませぬ。私は今、これを……」
于禁は先程持っていた竹簡と、座面に置いてある二つの竹簡に視線を向ける。
「そんなもの急いでいるものはないだろう。ほら、とりあえず俺に着いて来い」
夏侯惇は椅子の座面に置かれた竹簡を片手で持ち、もう片方の手で于禁の手を引いた。
「それは私が自分で持ちますので! それに、暇かと聞かれましたが私に何かご用ですか?」
于禁はすかさず、夏侯惇の持っていた竹簡を取り上げるとそう聞く。夏侯惇はまたもや溜息をついた。
「……ついこの間約束したはずだがな、ここでまた今度呑もうと。だから、今夜はお前に何も予定が無ければ一緒に呑まないか?」
「私は今夜は予定は空いていますが、他に誰も相手をされる者がいないのですか?」
「俺はお前と二人で呑みたいと言ったが」
「……分かりました。それでは今夜、この庭園でまたお会いしましょう」
先日とは打って変わって、于禁は事務的にそう返事すると二人はそれぞれ別れたのであった。

それから夜になった。夏侯惇を待たせる訳にはいかない、と于禁は早めに約束していた場所へと来た。だがそこには二人掛けの椅子に、一人分のスペースを空けて片側に座っている夏侯惇が既に居た。なので于禁は急いで夏侯惇の元へと向かうと拱手をする。
「お待たせしてしまい申し訳ありませぬ」
「いや、さっき来たばかりだ。ちょうどよいタイミングだな」
夏侯惇はそう言って先日と同じ酒壺を見せるが、対して于禁も同じような酒壺を持っていたらしい。于禁の持ってきた酒壺を見た夏侯惇は「たくさん呑めるな」と笑いかけた。
「夏侯惇殿も持って来ておいででしたか。しかし大量とは言え、二人で呑みきれるのか……」
「お前と二人なら呑みきれるだろ」
次第に上機嫌になってきた夏侯惇は于禁の言葉にあまり耳を傾けていない。なので早速、于禁の持ってきた酒壺を開けて盃に注ぐ。透明な液体が、盃の狭い円の中で澄んだ夜空をくっきりと映し出していた。
「ほら」
そして于禁に盃を渡すが、受け取ってはくれないようだ。于禁は首を横に振る。
「夏侯惇殿が先に呑まれるべきでは?」
「遠慮するな、ほら」
すると于禁はまたもや仕方なく、というような顔で受け取ると少し急ぎ気味に煽った。夏侯惇の「いい呑みっぷりだな」という静かな歓声と共に。
「それでは、夏侯惇殿も」
盃を空にした于禁は丁寧に太腿の上に置き、夏侯惇が持っている先程開けられた酒壺を持った。そして夏侯惇の片手にある空の盃になみなみと酒を注ぐ。
「すまんな」
注ぐ手が止まると夏侯惇は酒をゆっくりと喉に流す。そして二人の間にとても静かな時間も流していきながら。
「やはり静かなところの酒はうまいな」
「そうですな」
すると夏侯惇は気付く。先日とは植えられている花が少し違っているのを。なので于禁にそう話すと、その話を二人で始める。
そこで于禁は夏侯惇に対して饒舌になっていくのを意識しながらも、止められなかった。
「夏侯惇殿も気付いていましたか。私もつい先程気付きました」
「そうなのか」
「今ある前方の黄色の水仙の花の場所は、先日は白色の水仙が植えられておりました。後方の花は先日は赤色と青色の花が植えられておりましたが、今は赤色の花のみが植えられております」
夏侯惇は後方の花壇については覚えていたが、前方の花壇のことは覚えていなかったので興味津々に聞く。
「そうだったのか。そういえば、ここに植えられている花はどれくらいの周期で植え替えられるのだ? やはり枯れる前か?」
「私もそこまでは把握していませぬが、恐らくそうかと。さすがに毎日はここへ来ていないので」
夏侯惇は「それもそうだな」と笑いながら返事をすると、于禁の盃に再び酒を注いだ。于禁は申し訳無さそうな顔をするも注がれた酒を呑むと夏侯惇の盃に再び酒を注ぐ、という行動を二人は繰り返した。
そうしていくうちにある程度酒が減ると、二人はそれなりに酔っていった。一つ目の酒壺が空になる手前であって。
それでもきちんと視界に入っている物を認識できているが。実際に、二人は自分の盃や互いの距離感を外すことはなかったようだ。庭園に植えられている花の前後や色もはっきりと認識している。なので酒壺の中身をどんどんと減らしていった。
「……今日はこの辺にしておこう」
一つ目の酒壺は完全に空になり既に二つ目の酒壺を開けていた。それを呑む前と様子の変わらない夏侯惇が振ると、ちゃぷちゃぷというほんの小さな水音が聞こえる。酒は底をつきかけていた。
「ほぼ全て呑み切るとは……」
アルコールにより頬を赤く染めている于禁は、空になった盃と封の開いた二つの酒壺を見るなり驚いた顔をする。まさかそこまで無くなるとは思ってもいなかったらしい。
「歩けるか?」
「はい」
夏侯惇は酒壺と盃二つを、あらかじめ持ってきておいた大きな布に丸ごと包むとそれを左手に持つ。そして于禁に空いた右手を差し出した。顔色が変わっている于禁に念の為に。
「本当か?」
「立てま……」
于禁は立ち上がり夏侯惇の右手ではなく左手にある物を掴もうとしていて、夏侯惇に物を持たせる訳にはいかないと思ったからだ。その矢先に于禁が体のバランスを崩した。だがそれは一瞬のことであったし、于禁は右脚で地面を踏みしめて何とか転ばずに済んでいたようだ。だが夏侯惇は右手で何とか于禁の体を支えようとしていたようで、その右手は于禁の腰にしっかりと手を回していた。
「大丈夫か?」
「はい。申し訳ありませぬ……」
「気にするな。それより、お前のことが心配だ。せめて近くまで送ろう」
腰を回していた夏侯惇の右手は、離す瞬間にとんとん、と優しく叩く。于禁は酔っているのか、それが心地よいと思えた。なので思わず目を細めるが、夏侯惇は少し気分が悪くなってきたと勘違いしたらしい。しばらく椅子に座って落ち着かせるか、と于禁に聞くが首を横に振った。
「……もしやかなりのペースで呑ませたからか? すまない、今度は気を付けることにする」
離れた夏侯惇の右手はまたバランスを崩さないよう、于禁の左手をしっかりと握る。それの手を見た于禁は「はい」と返事をすると眉を下げた。
「……また今度」
夏侯惇は于禁を引くように歩きだすと、于禁はかなり久しぶりに微かに笑ったのであった。それを夏侯惇は見ていなかったが。

夏侯惇と于禁が二人での酒宴から数日後で、空は夕闇に染まる前だった。訓練を終えた後の于禁は平服に着替え、鞘に収まっている直刀を右手で持って城内を歩いていた。だがその表情はいつもより険しい。
理由は最近は戦が少ないせいか、普段の兵の様子が微かに緩んでいたからだ。なので于禁は兵たちに気を引き締めさせなければ、といつもより訓練を厳しくしたところだった。このような些細な油断が、平等に誰もが命取りになるからだ。将である于禁でさえも。
「戦があっても無くとも、やはり悩みどころはあるものだな……。戦が起きぬことが、一番ではあるが……」
つい兵のことを考えていた于禁の歩調は次第に荒くなる。するとすれ違った兵は恐ろしい怪物を見るかのような目で見た後、拱手をした後に怯えながら駆け足で遠くへと逃げて行くのを何度も見た。だが于禁はそのようなことに慣れているので、それに何も思わずどんどん歩いていく。
于禁の目的地は城内にいる刀工だ。ここからは距離が近いので、于禁自ら依頼しようとしていた。
今持っている直刀の刀身が、少しではあるが一部刃こぼれしてしまっていたらしい。訓練の最中に気付いていたが、それを理由に訓練を中断する訳にはいかないので、その刃こぼれしたところを避けながら、兵からの剣を受け流したりとしていた。
それは近距離の相手から鎧の胴や頭部に目掛けて振られたとき、それをどう対処させるかという訓練をしていた。しかしそのときに何度も鎧目掛けて振っていたし、直刀と直刀をぶつけていたのでいつの間にか直刀が刃こぼれしてしまったらしい。訓練中でさえ、兵の気が緩んでいたのでつい刀を振るう力を込めていたからだ。
しかしこの直刀は戦でも使う、実戦用のものなので刃こぼれさせてしまってはよくないものだ。なので刀工に急いで修復してもらうよう、依頼をするところである。
歩く度にすれ違う兵から怯えの態度を向けられながらも城内の端にある刀工の元へと辿り着くと、直刀の修復の依頼を終えた。
一安心した于禁は空を見上げる。既に夕闇から星が見える夜空に変わっており、眉間に皺を寄せたままそれを見る。
「ここからは隠れ処が近いな。今夜はそこで休むとするか」
于禁の隠れ処は領地内の森の奥にある。なので隠れ処のある方向を見ると、そこへと向かうため、城内の馬舎から借りた馬に乗ろうとした。そこで背後から自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
「于禁!」
それは平服姿の夏侯惇だった。手ぶらの于禁はすぐさま振り返ると拱手をする。
「このようなところで会うとは……。いかがなされましたか?」
「お前こそ、城の外に向かおうとしているがどうした?」
「少し先に隠れ処があるので、今夜はそこで休もうと思いまして。それでは、かこ……」
于禁はそう行って夏侯惇に背中を見せようとしたが、がしりと手を掴まれた。
「今は暇か?」
「えぇ、まぁ……」
于禁はそう返事してから夏侯惇からふと目を逸らすと、自分が分からなくなってきていた。確かに時間は空いているが、夏侯惇相手にでも正直にそう答えたのを。
いつもは用事があるとか、仕事があるなどと嘘をついて他人との関わりを避けてきたというのに。ほんの数回でも夏侯惇と二人きりで酌み交わした影響なのか、精神的にどこか心を許してきているようだ。
「それならお前の隠れ処で碁を打たないか? ……というより、お前の隠れ処に碁盤と碁石はあるか?」
「一応ありますが……」
「それならよかった。では、今からお前の隠れ処に行くぞ」
夏侯惇は明るい声音で言うが、于禁はあることに気付いた。夏侯惇は今は馬を持っていないのだ。
「……あの、夏侯惇殿。今は馬に乗っておいでではないのですか?」
「準備ができなくてな。……では、二人でこの馬に乘れば良いだろう。ほら、お前が前でいい」
「分かりました。それでは後ろにお乗り下され」
于禁は驚くも馬がないとなれば仕方ないと思い、先に馬に乗ると続けて後ろに夏侯惇が乗った。
夏侯惇は後ろから于禁の腹へと両手を回して背中に抱きつく体勢になる。それを確認した于禁は、隠れ処へと走り出して行った。

馬を走らせ数分後、于禁の隠れ処に到着した。ここは周りは人気がなく、木や草が生い茂ってるのみだ。とても静かな場所である。
その頃には空は暗くなっていたので、扉の両脇にある燭台に小さな火を灯して視界を確保した。
「ここがお前の隠れ処か。良い場所ではないか」
「お褒め頂き、ありがとうございます。先に降りて貰えますか?」
「あぁ」
夏侯惇は馬から降りると、続けて于禁も降りて馬を隠れ処の外壁にある馬繋に繋ぐと、二人は隠れ処へと入った。
「……ほとんど何もないのだな」
于禁の隠れ処に夏侯惇が初めて入った最初の一言がそれだった。隠れ処の外観は焦げ茶色の木の柱と白壁でできたものだった。ごく普通の外観だが、無駄な装飾が無く夏侯惇は「于禁らしい」という感想を持つ。
入ってすぐに見えたのが壁の中央にある、今でいう縦横が一メートルある正方形の窓で、目隠しの深く青い布がかけてあった。だがそれは一つだけではなく左右の壁にもそれぞれ一つずつ、中央に縦横五〇センチメートルある正方形の窓があった。
向かって右側の隅には文や書を書くための一人掛けの椅子と机がある。その手前には机の高さよりも身長の高い棚があり、念の為にと護身用の直刀と弓がそれぞれ一つずつ、机側に立て掛けてあった。
左側の隅にはごく普通の寝台と、右側のものよりも大きな棚が手前側の隅に置いてあり、着物などが入っているのだろう。現にその隣には布が掛けてある鏡が設置してある。。
床には無地の、中央の窓の目隠し布と同じ深く青い色で縦が一メートル、横が二メートル程の絨毯が敷かれていた。
夏侯惇の言うとおりでほとんど何も無いところだ。ここでは執務や睡眠を取ることくらいしかできないだろう。
「私はこれで充分ですが」
「すまん。言い方が悪かったな」
「いえ、私は気にしていませんので」
于禁は平然とした顔でそう言うと、申し訳無さそうな顔の夏侯惇を入口に置いてけぼりのまま、棚へと向かうと碁盤と碁石を取り出した。
「そういえば、碁を打てるような場所がありませんでしたな……」
于禁は振り返って夏侯惇の方を見る。すると夏侯惇は笑う。
「俺は絨毯の上でも構わんが」
「ですが……」
「ほら、やるぞ」
碁盤と碁石を于禁から奪い取った夏侯惇は、部屋の中央の絨毯の上に胡座をかいて座った。それを見た于禁は渋々と絨毯の上に、夏侯惇と向かい合うように正座をする。
「お前とは碁を打ったことがないから楽しみだ」
「分かりました。それでは貴方相手でも、私は手加減致しませぬ」
「そうでなくてはな」
夏侯惇が余裕そうな顔でそう答えると、二人は碁を打ち始めた。
だがたった数分後に于禁が勝つ直前、夏侯惇は碁盤をひっくり返した挙げ句「俺は勝つまで帰らない」と于禁に怒り気味に言い放つ。先程の態度のことなど、もう忘れてしまったのか。
「もう一局だ……! 次で勝つ!」
夏侯惇は怒り気味にそう言うと床に散らばった碁石を二人で拾い、もう一局打つことになった。だがその数分後に先程と同じ展開になり同じ台詞を夏侯惇が言う、という繰り返しが何度も起きたのであった。
結局、夏侯惇は急激な眠気で限界が来たことにより五局目の途中で寝てしまった。于禁は起こさないように優しく夏侯惇を抱き上げると、自分用の寝台に仰向けに寝かせた。だが碁盤についてはそのままにしておいた方がよいかと思った于禁は、それをチラリと見てから片付けずにそのままの状態で残した。
その後に于禁は夏侯惇の寝顔を見ると、何か不思議な感覚に襲われた。
心臓が戦の最中のように高鳴っているのが分かったが、なぜなのか分からないらしい。于禁はそう疑問に思ったが、眠たくなってきたのか思考が回らなくなってきていた。しかし寝台で夏侯惇の隣で寝るわけにはいかない。夏侯惇の隣で寝ることも考えたが、そう考えると余計に心臓が高鳴った。このままでは寝られる訳が無いように感じる。なので寝台とは反対側にある椅子に座ると心臓の異常な高鳴りが落ち着いてきたのか、于禁はそのまま眠りについたのであった。