一…隣の角部屋
とても理不尽な裁判があった。当時は雨がよく降る時期であり、この日は特に雨が酷い。
弁護をしている弁護士の男である于禁は裁判の最中に、窮地に立たされている。裁判長の反応からして、相手側が有利になってきているのだ。弁護を担当しているのは民事裁判で内容はよくあるもので、依頼者が裁判を起こしていたが。
于禁はそれまでのところで依頼者と共に確実な証拠を揃え、理性的な弁護の言葉を述べたというのに。それにより誰がどう見ても、勝てる裁判だというのに。
裁判が終わり、判決が下された。やはり、こちら側が負けたという結果である。于禁は相手や裁判長を鋭く睨むと、依頼者と共に法廷から出たのであった。悔しさと怒りを、その場に強烈に残しながら。
裁判所の建物から出ると、やはり雨は止んではいなかった。向かった際に差していた傘を手に持つが、開かないまま雨に打たれる。降っている雨など気にしない程に、于禁の頭は怒りで溢れていた。雨水が過度に貯蓄された結果、大きく決壊してしまったダムのように激しく。
すると頭に血が上った于禁は怒りのあまり何も考えられなくなり、唐突にその日に法律事務所を辞めてしまった。そこには長く所属していたのにも関わらず。
勿論、周囲から強く反対されたが于禁はそれを誰が言おうが突っぱねる。大学時代に知り合い、そしてこの法律事務所に所属して導いてくれた、于禁の人生で恩師と呼べる人物に対してさえも。誰からも、弁護士として信頼されていたというのに。
そして于禁が新人の頃に指導してくれたその恩師に、まだ恩を返し切れていないというのに。
※
「弁護士を辞めない方が、良かったのだろうか……」
弁護士を辞めてから僅か数日後、于禁は寝室の天井に向かって一人でそう言うと項垂れた。半袖のティーシャツとジャージという今の服装を見ると、加えて溜息もつく。しかし于禁の呟きや溜息の他には、少しの暑さや高い湿度があるのでエアコンの冷房の音のみが聞こえるのみ。
現在の時刻は朝七時。辞める前の習慣が体や脳にしっかりと根付いているのか、その時間に自然と目を覚ますと上体のみを起こしていたところだ。昨夜の就寝前にベッドサイドに畳んで置いていた黒縁のフレームの眼鏡を手に取って掛けながら。
于禁は前から漠然とだがなりたかった職業に苦労しながらも就き、そして多忙ながらも充実した日々を送っていた。だがそれは第三者からではなく、自らの手でいとも簡単に壊してしまった。それも壊れたのはほんの一瞬の衝動的な判断と時間からであり。
しかし例え壊れてもそれを修復できる可能性は充分にあるが、その気にはならない。実際に上司や同僚、それにその噂を聞いた同業者から「何故辞めてしまうのか」や「考え直してみないか」などという内容のメッセージの通知が、于禁のスマートフォンに幾つも入っていた。それも一日に、何回も何回も。
最初はそれを見て于禁の心が大きく揺らいだが、辞めると言った以上は戻って来るというのにかなりの恥が込み上げてしまう。なのでその通知を切り、それらの人間からのメッセージを受信しないように設定した。もう、戻る気は無いのか。
スマートフォンのホーム画面に戻り本日の日にちを確認すると、日付ばかりが進んでいくのに溜息をついた。これから自分はどうすべきかと。幸いと言っていいのか、于禁には妻子も恋人も居ないのでプレッシャーに過度に追われることは無い。
しかし独身であっても、貯金はそれなりにあっても再就職先を探すしかないのだが、学歴が高くその上に弁護士資格も所有しているのであまり苦労はしないだろう。于禁自身は、若いとは言えない年齢ではあるが。それに前の職場に胡坐をかく羽目になるが、所属していた法律事務所はかなり有名で、実績も高いと評判のところである。履歴書のみの時点でも、会社側からしたらかなりの好印象であるはずだ。
そう考えた于禁は気になる企業はどこか幾つか考えてみるが、全く思い浮かばなかった。今までは弁護士一筋であり、他の職業に転職するなどという思考など一度もしたことが無かったからか。
そこでようやく立ち上がりベッドから離れて寝室から出ると、支度をしてから軽く朝食を取り、書斎に向かってからノートパソコンを起動させた。目的は、ネットサーフィンをして中途採用者を募集している大手企業のホームページを一通り閲覧するために。
数一〇分間費やして数社ほどのホームページを閲覧したところで、于禁は次第に退屈になってきていた。表面上では、どこもつまらない社風であると思ったからだ。そう思い始めると、真っ先にノートパソコンの電源を切ろうとした。だが今日は何をして過ごせば良いのかと思うと、電源を切ることを躊躇う。
すると、とある考えが過った。あの屈辱であった裁判を、相手側と自身側の主張をもう一度照らし合わせ、様々な角度で見てみるとどうなのかを。裁判の前に、同じ法律事務所に所属している何人もの弁護士、それに恩師含めた全員から「どう見ても于禁側が勝つ」という判断を下されていたのだが。
于禁の視線と同じくらいの高さのある書棚から、過去に担当していた裁判のメモがびっしりと記載してあるファイルを取り出すと、最後のページをすぐに開いた。そこには、あの裁判のメモがある。その裁判のメモをひと睨みすると、それをノートパソコンの文書作成ソフトに打ち込んで一通り纏める。次々と形成されていく、屈辱の内容を文字で蘇らせて眉間の皺を深くさせながら。
全てを入力し終えると、既に昼と言うにはまだ早い時刻になっている。そういえば目を覚ましたときから胃に少量の物しか入れていないことに気付くと、作業の進行度合からして区切りがいいのか食事を取って休憩をすることにした。
軽く食事や休憩を終えると、時刻は昼前である。于禁はここまで、不規則な生活を送るのは初めてであると何気なく思うと、再びノートパソコンの前に座った。
「違う……角度……」
ディスプレイに向かってそう呟くと、裁判の内容をとても冷静になった今見返す。弁護士としてその裁判への思考も意識の、熱さの芯が消えた状態で。
それでもやはり、こちら側が勝つとしか思えなかった。どの視点から見ても。
深い溜息をつくも、公的な方法で終わってしまった物事であるが。
「全ては終わってしまったこと、か……」
そう呟くと、于禁はとあることに気付いた。これがもし、自身の思い通りになったらと。だが于禁の性格や前の職業柄、いわゆる『妄想』という言葉とは無縁である。常に『事実』と常に向き合ってきたからか。
しかし、今は弁護士としての営みを行っていない。今は『事実』を仕事にしている訳ではない。だからこそ、と于禁は『事実』を蹴り『妄想』を引き寄せることにしたのであった。それは、于禁にとっては一時の気の迷いによって。
于禁の『妄想』を引き寄せる作業は、昼過ぎから翌日の早朝まで続いた。食事や休息を取るのも忘れる程に。
最初のうちは紙に脳内で思い通りにしたものを書いていたが、自然と密度の無い話へと変わっていき、最終的にはノートパソコンの文書作成アプリで数多の人間ドラマを交えた小説を綴っていた。頭と手が、止まらなかったのだ。自分でも驚く程に没頭していた。
そして最後の一文を入力し終えると、于禁はどっと力が抜けた。何時間も休み無くひたすら打ち込んできた大量の文字に、全て吸い取られてしまったかと思うほどに。
だがその大量の文字たちを生み出してどうするのかと、今更ながらに考えるが何も思い付かないでいる。入力した膨大な文章は常に自動で保存されていたので、于禁は考えるのを止めるとノートパソコンの電源を切り、寝室のベッドの上に横になるとそのまま眠りについたのであった。掛けたままの眼鏡の存在など気にせず、とても満足気な顔をしながら。
翌朝、于禁はいつもよりも早い朝の六時過ぎに目が覚める。睡眠を取ってから、まだ二、三時間しか経過していないというのに。
原因は住んでいるマンションの隣の角部屋の住民の、バタバタとした音に起こされてしまったことだ。于禁はそれに苦情を入れようとも思ったが今日も平日であり、この時間帯は普通の日常生活を営んでいてもおかしくはない時間である。于禁は自身の恐らく一時的である異常な立場に気付かされると、その考えを放棄した。それに、隣の角部屋の住民の顔や名前すらも知らないからか余計に。
充分に睡眠が取れていないので、二度寝しようとも思ったがどうにも気持ち悪いと感じた于禁は、フラフラとした足取りをしながら書斎へと向かってノートパソコンの電源を入れる。昨日、いつの間にか執筆してしまった小説をどうするか考える為に。
因みに執筆してしまった小説の内容とは、主人公は新人の弁護士で、ある日その主人公の元にとある民事裁判の弁護の依頼が舞い込んで来た。なのでそれを快く受けるがその依頼は実は、他の弁護士などが匙を投げる程に無理なものである。依頼者は半ばやけくそで新人である主人公に依頼をしたのだが、当の主人公はその難関さをあまり想像できなかったらしい。後々になり依頼を受けたことに後悔をするが、弁護士としての実績を一つも作っていないので主人公は証拠集めをする為にとにかく奔走した。主人公の年齢はまだまだ若いので、とにかくがむしゃらに。するとその努力が実を結んだのか確実な証拠を見つけ、難関な裁判に勝つというものだ。于禁の今までの弁護士人生を、あまり反映させていないのだが。
文書作成アプリを立ち上げ昨夜書き終えた小説のファイルを開き、改めて見ると于禁は驚愕した。その文章量はファイルを変換してみると、一般的に書店で販売されている小説とほぼ変わらないからだ。
于禁は呆然としながら文字の羅列を見るなり、考えた。再就職活動を始めるまで、どこか適当な出版社の公募に応募してみるのはどうだろうかと。勿論、選考されるはずなど無いのだが。
そう考えると検索エンジンにふと頭を過ったかなり有名な出版社をすぐに入力して検索をする。そしてホームページを開くと、トップページの片隅に代表取締役社長である曹操という男の写真やプロフィール表示されている。于禁はそれを一通り閲覧した後に他のページも確認した。
すると偶然に公募についてのページを見つけた。テーマの縛りが無いとの記載がある。しかも受賞すれば作家デビューできて、受賞作の本を発行するらしい。だがその公募の締め切りは、ちょうど今日であった。なので于禁は今日の日付の数字を見るなり、つい焦りが募って応募してしまったのであった。その際のペンネームは、性別も年齢も推測されづらいものにしたが。
しかし選考は僅か一か月後である。そこはかなり有名で規模の大きな出版社なので当然、公募する者もかなり多いはずであるが。
于禁はそれに若干首を傾げるも、その間にどこの企業に就職したいか考えることにした。同時にネットのニュースやテレビから発信される様々な事件をきちんと把握しながら。
※
于禁が小説を応募してから一か月が経過すると雨がよく降る時期は終わり、汗ばむ時期の本番を迎えていた。
その間に職業安定所に少し通いながら、気になる企業を探してはみたものの見つからなかった。そして隣の角部屋の住民は毎日、早朝と深夜にバタバタとしていた。そこまで仕事が忙しいのかと于禁は思うしか無くなっていたが。
ある日の昼間、見覚えのないメールアドレスからメールが来ていた。夜になり、それに気付いた次第であるが。
于禁はやはり中途採用者を募集している適当な大手企業にしようかと思い、ノートパソコンの電源をつけたところであった。そのメールを不審に思いながら開く。迷惑メールであった場合、最近の流行っている文章のパターンを把握するために。
しかしメールを開いた途端に于禁の予想の、何もかもが外れた。メールの送信元は、于禁が一か月前に公募した出版社からであった。
内容は一次選考に通ったとのこと。そして二次選考は一週間かけて行われた後に新人賞が決まるらしく、落選しようとも新人賞を受賞しようとも、出版社からわざわざメールを送信してくるらしい。
于禁はただ驚くことしかできなかったし、場合によっては再就職どころでは無くなるとも思えてきていた。自身の行動を後悔すれば良いのか、賞賛すれば良いのか分からなくなったまま。
そして一週間が経つ。于禁は遂には緊張しながら、意味も無く朝早くからノートパソコンの電源を入れてメールが来るのを待っていた。自身が受賞しないか、意味もなく期待をしてしまっているのだ。所詮は今まで小説の類のものを書いたことも無い素人が、落選するという可能性の方が大きいというのに。
因みにだが今朝も隣の角部屋の住民はバタバタとしていた。于禁はそれを聞いてももはや、日常での環境音だと認識してしまっているが。
するとノートパソコンの前で待つこと数時間、ようやく出版社からメールが来た。時刻はようやく一〇時を回ったところである。
于禁は手を震わせながらメールを開くと、そこには二次選考を通り、新人賞を受賞したという内容。なので于禁は目を見開き、そして先程よりも手の震えを大きくさせた。夢ではないのは分かっている。しかしここまで驚いたことは無かったのか、何も言葉を発せられないままメールの画面を数分凝視した後、そのメールに記載してある電話番号を確認してからスマートフォンに入力して通話を始めたのであった。
数日後、有名なホテルの中規模のホールを貸し切って授賞式が行われた。于禁の他に数名新人賞を受賞しているが、中には欠席をしている者も居る。
その前に受賞した際の電話にて顔出しについて質問されたが、于禁は顔出しを拒否した。他の受賞者も、顔出しを拒否している者が半分。なのでメディアは一切入れずに授賞式が行われた。だからなのか、于禁以外の受賞者の服装はいわゆる普段着であった。受賞者の中で于禁のみがスーツを着ているので、出版社の関係者と何度も間違われていたが。
中規模のホールであるが、関係者約三〇名程が同じ方向に向いて着席していて、その前には一本のマイクがある。着席している関係者から見て右側に、受賞者が着席していた。
すると予定の時間になったのか授賞式を始めるというアナウンスが聞こえてくる。この出版社の代表取締役社長である曹操が早速マイクの前に立ち短い挨拶を済ませると、受賞者全員に挨拶を促す。なので受賞者全員がそれを済ませると、授賞式は終了した。
授賞式とは長いものというイメージが、于禁の中に前々からあったらしい。だがこの出版社の授賞式は、とても淡々としていた。このような場というのは慣れている于禁だが、自身が受賞した上での式典というのはあまり慣れていない。なのでそれが有難いとも思っていたが。
その数日後に早速デビュー作の打合せのために于禁はビル街の中心にある出版社へと赴く。他のビルと比べると、ここの出版社の建物はかなり大きい。だがそのようなものを見慣れている于禁は数秒見た後、何も思わずに建物へと入って行った。この時の時刻は昼下がりである。しかし服装がいまいち分からないので、授賞式のように暑さに耐えながらスーツを着込んで。
出版社の広い玄関に入る。そこには沢山の人々が行き交っていた。于禁の背後から駆け足で玄関に入って来る社員や、受付の隣にある関係者のみ入場できるゲートから、駆け足で玄関へと出る社員。最近はかなり忙しいらしく、皆揃ってスマートフォンを片手に持っていた。そこで何故か最近忙しいらしい、顔も名前も知らない隣の角部屋の住民のことを思い出してしまっていたが。
受付に向かって用件を話すと、受付嬢は于禁の顔や服装におののきながら案内する者に連絡をした。しかし于禁本人は、それに慣れているのか何も思わないでいて。
数分後にとある若い女性が于禁の元に来た。服装は襟付きのワイシャツを着つつもオフィスカジュアルが中心で、化粧は濃くも薄くもなく髪は綺麗に整えてある。見るからに若手社員だ。
「あなたが于禁殿ですか? はじめまして、蔡文姫と申します。改めまして、受賞おめでとうございます。まだ業務に慣れていない身ですがよろしくお願いします」
その蔡文姫という女性社員は于禁に対して畏怖の態度を示すこともなく名刺を渡してくる。于禁はそれに珍しく思いながら、前職の癖で懐から自身も名刺ケースを取り出そうとした。しかし名刺などもう持っていない身分と気付きハッとすると、「間違えた」などとは言いづらいので軽く咳払いをしてから受け取る。それを見た蔡文姫はどうしたのかと首を傾げていたが。
するとさっそく打ち合わせがしたいと蔡文姫が言うと、関係者のみ一時的に入場できるゲートのカードキーを手渡す。ここの出版社の暫定的ではあるが長期的な関係者という証明である。于禁はそれを受け取ると、何故だか不思議な気分に襲われた。人生でこのような物を渡されることとなるのは、于禁本人でも思いもしなかったからだ。
それの表裏を珍しげに確認した後に蔡文姫に着いて行き、ゲートを通る。しばらく歩いてから通された小さな会議室に入ると、二人で長い時間に渡る打ち合わせをしていたのであった。
今回の打ち合わせの内容は小説の出版社側の校正が行われた後に、著者である于禁が修正をしてまた出版社側が校正を行うという繰り返しの作業をするということ。そして本の装丁、デザインについてのことである。今回の公募の受賞作というのは、全て文庫本として発行されるが。
前者のことについては時間を掛ければ必ず達成できることであるが、後者については于禁は全く分からなかった。本の装丁など今まで気にしたことも無かったし、表カバーのイメージについてと言われても全く分からない。そこで担当である蔡文姫が話の内容を纏めてくれていたので、そこから連想してある程度の仮の案を二人で考える。それでも表カバーのイメージは固まらず、後日また話し合う結果となったが。
そして最後に蔡文姫が修正の際に必要になりそうな新聞の切り抜きの資料を渡したいと言っていたが、仕事が忙しく準備できなかつたらしい。なので于禁はそれについての丁寧な謝罪を受けるも、気にしていないという言葉しか出せなかったが。
「……あの、私のことを、覚えていらっしゃいますか?」
打ち合わせがようやく終わった頃には、外は少し暗くなっていた。于禁が疲れながら帰る支度をしているところで蔡文姫がそう話しかけるが、于禁は突然のことに首を傾げる。
「いや……私は貴殿とは初対面の筈だが」
しばらく考えたがそれしか言えなかった于禁は、答えの後に謝罪を付け加えた。本当に、申し訳ないと思っているのか。
「数年前の私が、まだ高校生の時ですが……」
すると蔡文姫は数年前のとある裁判について話し始めた。
当時の蔡文姫は高校生であったが、親戚が事件に巻き込まれていた。裁判になりその親戚の弁護を依頼したのが当時、于禁が所属していた法律事務所であり、弁護を担当したのが于禁である。
その事件の証拠人であった蔡文姫は于禁との面識がはっきりあったが、于禁は忘れてしまっていたらしい。裁判の内容を思い出すと、于禁はすぐに全てを思い出した。その裁判は蔡文姫の証言によりかなり大きく揺れ、そして于禁の弁護によって勝訴という結果で終わったという裁判だったからだ。
「あのときは……蔡文姫殿はまだ若いのに災難であったが、親戚方の無実が証明されて本当に良かったと思っている」
「私もです。改めて、あの時は本当にありがとうございました……ですが、どうして小説家になろうと思われたのですか?」
「それは……」
于禁は蔡文姫の質問に言葉を詰まらせていると、部屋の扉がノックも無しに開いた。
「おい、ここの使用時間がとっくに過ぎているぞ。延長するなら報告しろ」
低い男の声がした。その方向を見ると、左眼に眼帯をしている身長の高い男が呆れ気味に立っている。于禁は男の表情ではなく眼帯の方を見てしまったが、それを凝視するのは失礼だと気付き目を逸らした。
「申し訳ありません、編集長。今、打ち合わせが終わりましたので」
蔡文姫は椅子から立ち上がって頭を下げる。この男は、編集長の役職に就いているらしい。そういえば編集部に顔を出したものの、編集長は今は不在だということを蔡文姫が言っていたのを思い出すと、于禁はその編集長に自己紹介をした。
「はじめまして。先日の公募で……」
「お前の名前は知っている。于禁という名だろう? 俺は夏侯惇だ。よろしく」
于禁はその際にビジネスマナー通りに握手を求めたが、夏侯惇はそれを断った。
「……やけにそういうマナーが良いな。別にそのようなことはいらん。それより、ここを他の者が使用する予定があるから、仕事に関係無い私語は休憩スペースでしてくれ」
夏侯惇はそう言い放つと、少し機嫌を悪くしながら会議室から離れて行ったのであった。二人はそれに対しては反感を示さず、自分らが悪いと理解すると短い別れの挨拶の後に于禁は疲労を背負いながら帰宅したのであった。
だが打ち合わせの前に仕事用のであるが蔡文姫のメールアドレスを教えて貰っていたので、帰宅してから数時間後の日付が変わる前に『渡したい資料があるから家に向かう』という内容のメールが入っていた。于禁はそれに『明日で良ければ出版社に取りに行く』という返事を送る。
しかしもう家の近くだとすぐに返信のメールが来たので、于禁はかなり焦っていた。
何故このような時間帯に、若い女が一人暮らしの男の家に来るのか。そして何故住所を知っているのか。それらの考えを巡らせながら玄関へと向かうと、隣の角部屋の住民が帰宅したらしい。玄関の扉が少し乱雑に閉まる音で分かった。于禁は溜息をつくと、次は規則的なヒールの音が聞こえた。于禁は蔡文姫がインターフォンを押す手間を無くす為にすぐさま玄関の扉を開ける。
「すみません、こんな時間に」
蔡文姫は近所迷惑にならないようにと小声でそう言うと、于禁に何やら冊子が数冊入っている大きな茶色の封筒を手渡す。これは今日の打ち合わせの時蔡文姫が用意すると言っていたものである。しかし今日の打ち合わせではまだ渡せないと言っていたが、今日の内に何とか用意できたらしい。なので蔡文姫はすぐに渡そうと思った次第である。
于禁は仕事熱心なのは良いことであるが、蔡文姫には自分の状況をもう少し考えて欲しいと思ったが。
「感謝するが、蔡文姫殿は若い女性なのだから、もう少し……」
「あっ! タクシーを待たせているので、それでは、おやすみなさい!」
蔡文姫は説教を交えた于禁の言葉を遮ると、口早にそう言ってから小走りで走り去ったのであった。于禁はその華奢な背中をただ見送ることしかできず、見えなくなってからハッとした。部屋に戻り施錠をするとスマートフォンを手に取り蔡文姫に、気を付けて帰宅して欲しいという内容のメールを送る。
すぐに返信が来ると、于禁はスマートフォンと資料の入った封筒をテーブルの上に置いてから静かにベランダに出る。雨は降っていないが、この時間帯でも気温が高めなので少し暑い。
于禁はふと隣の角部屋を見ると、部屋の照明が点いていた。それを瞬時に視界に捉えるのみで、その後はすぐ近くにある街の賑やかな夜景をただボーっと眺めていると、隣の角部屋のベランダの窓が開く音が聞こえる。于禁はその方向を反射的に見ると、目を見開きとても驚いた。
「えっ……」
「えっ……」
隣の角部屋の住民の正体は、編集長である夏侯惇であった。于禁は驚きを隠せないまま、ただ体を硬直させる。
「何だ、こんな時間帯に女を連れ込んでいるのはお前だったのか。女はどうした?」
先程の蔡文姫のヒールの足音が夏侯惇に聞こえていたらしい。なのでニヤニヤしながら于禁にそう聞くが、やましいことを何もしていないのでそれに淡々と事実を答える。
「女性……? 先程私の家に来ていたのは蔡文姫殿です。それに、私のデビュー作の資料を急遽持って来て頂いただけですが」
「は?」
于禁は自分の部屋に戻ると、テーブルの上に置いているスマートフォンに何か通知が入っているのをチラリと確認したが、それを無視して蔡文姫から渡された封筒を手に取るとベランダへと戻る。スマートフォンの通知など、夏侯惇への用が済んでから確認しようと思っていて。
「これです」
封筒を渡すと夏侯惇は暇だからと資料である冊子を取り出す。そしてパラパラと捲ると、夏侯惇は驚愕した。
「……そういえば、最近は、こういうのが、流行っているよな……」
何やら夏侯惇の表情や動きがぎこちないうえに、大量の汗が流れ出る。今の気温はそこまで高くないというのに。
そのぎこちない動きを維持した状態で、夏侯惇は資料である冊子を封筒に仕舞おうとするが于禁はそれを制止した。夏侯惇が何故そのような態度を唐突に取るか分からないからだ。蔡文姫から渡された資料の冊子というのは、数年前の新聞の切り抜きだというのに。
「流行っている……? 蔡文姫殿から渡された資料は、数年前の新聞の切り抜きの筈ですが」
「は? そんな訳があるか」
苛ついた表情へとすぐに変えた夏侯惇は、その資料の冊子を封筒に仕舞わないまま于禁に渡して見せる。于禁は冊子の表紙を見ると、驚きのあまり声も何も出ないまま再び体を硬直させた。
その冊子というのは、いわゆる男性同士でただ性行為を行うだけの漫画本であった。しかも表紙からして内容の分かるものであり、きちんと対象年齢が一〇八歳以上のものである。
于禁は見てはいけないものを見てしまったと思い、素早く冊子を封筒に仕舞うと部屋に戻った。死んだ目になり、どこか遠くを見始めた夏侯惇を放っておいて。
無視してしまっていたスマートフォンの通知というのは、蔡文姫からだったかもしれないと思い、スマートフォンを素早く持って通知を確認する。通知の相手はやはり蔡文姫であった。
メールが一通のみ来ていたが、その内容は『封筒の中身を間違えてしまいました。すいません。封筒を開けないようにお願いします』と。それに対して于禁は嘘をついた。
いや、厳密に言うと夏侯惇が封筒を開けてしまったので、嘘ではないのだが『開けていない。了解。明日の午前中のうちに出版社に行くので、その時に返す』と返事を送ると、蔡文姫からすぐに了解の返信が来た。今頃、蔡文姫はホッとしているのだろう。しかし同時に夏侯惇のことを少し災難と思うと、明日出版社で会った場合には簡単な謝罪をしようと考えた。
眠る支度を終えると、いつの間にか日付が変わっている。于禁は溜息を深くつきながらベッドの上に横になると、そのまま眠りに就いたのであった。