髪結い

髪結い

「……傷んでしまいますが」
夜が深まった頃、于禁の寝室にて体を重ねた後の二人は、体を清めてから眠りに就こうとしていた。寝台の上では夏侯惇が夜着を軽く羽織っている。そこで既に夜着をきっちりと纏い、髪を軽く結っている于禁はそう忠告した。夏侯惇の艷やかで長い髪を見ながら。
「傷む? 何がだ?」
今は就寝前なので失明した方の瞼に、布をあてていない夏侯惇は首を少しだけ傾げる。どうやら、于禁が何を指しているのか分からない様子だ。
なので于禁は微かに笑ってから、夏侯惇へと片手を伸ばした。そしてその手で、夏侯惇の髪を柔らかく掬う。
「あなたの美しい御髪の事です。そのままでお休みになられるのは、よろしくないかと」
「そう言われてもな……。そもそも俺は女ではないから、髪が傷むだの、美しいだの、そのようなことはどうでもいい。第一、傷んでしまっても誰も困らないだろう?」
夏侯惇は溜息をつきながら、自身の髪を未だに掬っている于禁の手を見た。夏侯惇からしたら于禁の言う、美しいとは思えない髪も共に。
「私が、困りますが」
きっぱりとそう言った于禁は掬っていた夏侯惇の髪へ、顔を近付けてからそっと唇で触れる。まるで荘厳な誓約を、今から交わすように。
それを間近で見た夏侯惇は、顔を赤く染めた。
「……では、どうしろと言う……」
髪から顔を離して目を合わせてくる于禁に対し、夏侯惇は疑問をぶつける。その際に視線を、羞恥や困惑の為に大きく逸らせていた。無論、それは情人に対しての特有のものであって。
「私のもので申し訳ありませぬが、髪紐をお貸し致します。それで御髪を軽く結んでから、お休みになって下され」
于禁が寝台から立ち上がって離れたと思うと、近くの棚から丁寧に結んでしまっていた濃い青色をした髪紐を取り出していた。それを夏侯惇に見せる。
顔を赤くしている夏侯惇へ、頬を緩ませながらも。
「……分かった。そうする」
視界の隅にようやく于禁の姿を入れながら、夏侯惇は手を差し出して髪紐を受け取ろうとした。だが于禁は拒む。
「どうした?」
「……失礼を承知の上で申し上げますが、私があなたの御髪を、この髪紐で纏めてもよろしいでしょうか?」
于禁は夏侯惇の前に立って拱手礼をしようとすると、それを察した夏侯惇が手を下に降ろすように言う。その時には、顔の赤らみが次第に引いていた。
「別に構わん。だからそのような畏まった態度はするな」
次は于禁が困惑していると、その後の夏侯惇は何も言わずにゆっくりと背を向ける。早く髪を結うようにと。
なので于禁は夏侯惇の背中を見てから小さく頷くと、ついでに棚から櫛を取り出してから寝台へと乗り上げた。そして夏侯惇の背中へと近付くと、後頭部のあたりの髪を柔らかく掬い上げる。
それと同時に夏侯惇は両肩が完全に見えるまで、自身の夜着を少しだけ下にずらした。于禁が髪を触りやすいように配慮してなのか。
于禁は最初に掬い上げていた髪を櫛で軽く整え始め、それが終わると次に襟足を持ち上げた。すると突然于禁の手が、時が止まったようにピタリと止まってしまう。
なので櫛で髪を整えられていた最中の夏侯惇は、手を止めてどうしたのか尋ねた。心地良さそうにしていたので、若干の機嫌の悪さを出してしまいながら。
「どうした?」
「その……」
于禁が硬直したのは、夏侯惇の両肩に体を重ねた際に刻印するようにつけた、噛み跡や赤い痕をつけていたのを見たからだ。しかし行為の熱が冷めた今はそれを見て、夏侯惇の髪を整えるどころではなくなっている。熱が高まっている最中の、蕩けた様子の夏侯惇をどうしても思い出してしまうからか。
しかし夏侯惇自身は、その存在を把握してしまっているだろう。そう思った于禁だがつけた存在については言及せず、何か理由をつけて誤魔化すことにした。自分から見たら、ただ見苦しいとしか思えないが。
「まだ、夜は冷えますが、お寒くはないですか?」
于禁の出す言葉の一つ一つが、とてもぎこちなかった。油が差されておらず、動きのぎこちない仕掛けのように。
「今の時季はそこまで冷えないだろう」
夏侯惇は淡々とそう返すと、于禁は「そうですな……」と消え入りそうな声で返した。だがその直後、夏侯惇は肩を小刻みに震わせた。何かと于禁は思いながら夏侯惇の後頭部を見る。
「于禁。閨事の最中に、俺の肩につけた痕を見て、先程は硬直していただろう?」
顔を振り返らせず、夏侯惇は視線のみを動かして于禁へとそう問う。すると夏侯惇の髪を掬っている于禁の手が震えた。そして、櫛を持っている手も震わせながら必死に否定をする。どう考えてもその様子は図星でしかないが。
「夜着を別にずらさなくとも髪は結えるが、わざとだ。先程のお前への仕返しだがどうだ? 常勝将軍殿」
悪戯心が充分に含んだ笑みを零しながら、夏侯惇はそう言う。しかし于禁は本当に何も言葉が返せないのか、降参でもするかのように無言で髪結いの続きをしていたのであった。