せめて、もうあと一つの呼吸でも

せめて、もうあと一つの呼吸でも

ここ数日、夏侯惇は有り得ない程の多忙であった。
机上では様々な文章が記されている竹簡に囲まれる日々と、それ以外では内政に追われる日々。なのでそのせいなのか、あまり休めない日が続く。それに睡眠時間も短くなっており、酷いときは全く寝ない日もあった。
最近、全く顔を合わせていない于禁はそれを小耳に挟んでいた。それに遠目から見かけたことがあったが、疲労により酷くやつれていたのが脳裏に貼り付いている。その様子を見てかなり不安になり、そしてショックだったのだろう。
そこで于禁は、夏侯惇に対して何かできることは無いかと必死に考え込む。しかし導いた答えが『何もできないので、鍛練や自分に割り当てられた執務をこなす日々を送るだけ』である。いつものように、淡々と。
ある日の昼過ぎのことだった。平服姿で少しの執務をこなそうとした于禁だが、手元にはある竹簡があった。それは本来は夏侯惇の元に無ければならない大事な竹簡である。他の者のミスにより于禁の元にあったのだろう。だが、竹簡を管理している者も夏侯惇同様に疲れているのだろうと思うと、なぜだか怒るに怒れなかった。なので于禁は「今後は気を付けるように」とだけ思い、溜息をつきながら夏侯惇の元へとそれを届けることにした。相手が誰であろうと、平等に怒らなければならないのは分かっていても。
しかし夏侯惇の元へとわざわざその竹簡を届ける理由がある。今は手が空いているからというごく単純な理由もあるが、一番の理由は夏侯惇の様子を少しでも見に行きたい。そして少しでも会いたいという理由でだ。なので竹簡を片手に持って部屋を出た。

しばらく城内を歩いてから、夏侯惇の部屋へと到着した。扉に控え目に数回ノックをしてから、恐る恐る入る。だがそこには、机に向かって竹簡に必死に目を通している平服姿の夏侯惇がいた。こちらの存在には気付かず、時折舌打ちが混じりながら墨を含ませた筆を走らせている。このままでは、ずっとその様子を見続けることになるだろう。
しかし見続けるというのも良いが、執務の邪魔になるだろう。それに手に持っている竹簡を届ける為にここに来ている。たったそれだけの用事のために長居をする訳にはいかない。なので于禁は口を開いた。
「失礼します、夏侯惇殿。これが私の元に紛れておりました」
すると夏侯惇は顔を上げ、于禁の顔を見るなり椅子から勢いよく立ち上がる。その様子に驚いた于禁は、後ずさりをしかけてしまうほどに。
「于禁……!」
先程まで疲れた表情をしていた夏侯惇だが、とても嬉しそうな表情に変えながら于禁の元へと歩み寄った。
「あの、夏侯惇殿……」
だが于禁は手に持っている竹簡を渡そうとするも、それを夏侯惇は必要無さそうに無視してから、于禁にすっぽりと収まるように抱き着いた。それにより思わずバランスを崩しかけた于禁だが、何とか体勢を持ち直す。すると夏侯惇は于禁の肩のあたりへと顔を埋め、いつもはかき上げている髪などどうでも良さそうに額をぐりぐりと擦り付ける。すると髪は徐々に崩れていったが、于禁はそれがまるで幼子が親に甘えるように見えてしまっていた。
「何日もお前に会っていないから、どうにかなりそうだった……会いたかった……」
于禁は空いた片方の手で夏侯惇の頭を撫でてやる。すると本当に甘えてきている幼子に見えてきた。
更にかき上げている夏侯惇の髪が崩れたが、もう今更だろう。髪が乱れきってからようやく夏侯惇は顔を上げて、眉をハの字にしながら于禁を見つめた。一つしかない瞳であっても、普段は意思の強さが人一倍顕れている。しかし今はそれの面影が全くない。
夏侯惇は今、于禁の前でさえ滅多に見せない程に、弱々しい表情や声をしているのだ。なので于禁は、渡してからすぐに戻ろうとも戻れなくなっていた。というより、戻りたくなくなっていた。愛しい恋人の、そのような様子を見ては。
「少し、お休みになられては?」
夏侯惇の頭に手を乗せたまま顔を近付け、そして唇で軽く額を触れた。すると弱々しい瞳が、それに返事をするように閉じる。
「そう言うなら、寝床まで運んでくれ。そうしたら言うとおり休んでやる」
上げていた顔を下ろし、再び于禁の肩のあたりに顔を埋めた。それを見て于禁は頬を緩める。なんと可愛らしい、と思いながら。
「……仕方のない御方ですな」
返事に少しだけ間を置いた于禁は竹簡を夏侯惇に持たせると、腰に手を回した。そしてそこから慣れた手付きで手際よく、夏侯惇を横抱きする。
「それは机に」
持たせた竹簡を机の上の空いたスペースに置かせると、夏侯惇の両手が空いた。なので夏侯惇は于禁の首の後ろへと両手を回すと、先程の額への口付けの仕返しなのか唇を頬へと軽く触れる。于禁は少しくすぐったそうにすると、更に仕返しなのか次は唇同士を軽く合わせた。
「なんだ、寝床に運んでも、俺を休ませないつもりか?」
夏侯惇の弱々しい瞳は、次第に蕩けてきた。その変化にすぐに気付いた于禁は喉を大きく鳴らした後、寝床へと歩み始める。それを夏侯惇に確実に聞かれているだろうと思いながら。
だが寝室へと向かう足の一歩一歩は、于禁にしては小さくそしてかなり遅かった。まだ、夏侯惇とこうしていたいために。
「違います」
「嘘を言うな」
夏侯惇は小さく笑って唇を合わせると、于禁の足はピタリと止まった。そして少しの沈黙が発生したと思うと、于禁はそれを破るように口を開く。
「……夜に、またここに来ます」
確かに夏侯惇に伝えると、小さく頷いたので寝室へと向かって行った。そして寝台の上へ、繊細な作りの人形を横たわらせるように夏侯惇を仰向けに寝かせる。その頃には、夏侯惇は今にも眠りに入りそうなほどに目が閉じてきていた。夏侯惇はあまりの疲労により限界らしい。
「もう少し、お前と……」
すると夏侯惇は言葉を最後まで言い切る前に、糸が切れたように眠りにつく。その直前に手を伸ばしていたが、寝台の上へとぼとりと落ちていった。
「ゆっくり休んで下され」
于禁はそれをとても名残惜しげな顔でそれを見守ると、夏侯惇の頭を撫でた後に部屋を静かに出たのであった。