約束の指
よく冷える夕暮れ時だった。
朝から鍛錬も特に急いでいる執務も無い于禁は、平服姿で城内を歩いていた。時折、白い雲が見える黄色い空と、吐いた白い息を見ながら。
すると近くで大きな叫び声が聞こえてきた。
「どこだ! 孟徳!」
曹操を字で呼ぶ人間といえば、夏侯惇しかいない。夏侯惇は曹操を何か急用があって探しているのか、通路の角のところで立ち止まった于禁はそう思った。すると夏侯惇の声がすぐ近くで聞こえてくるので、その方向を見る。
「もうと……于禁! ちょうどよかった! 時間が空いてるなら孟徳を探すのを手伝ってくれないか!」
角を曲がった先から平服姿の夏侯惇が走ってきたが、于禁が視界に入るなり立ち止まり、早口で必死そうにそう頼んできた。
「空いていますので、手伝います」
于禁は特に何も予定がないので、すぐに頷いて承諾する。
「すまんな! では、于禁はむこ……孟徳!」
夏侯惇は于禁の背後にある二つに分かれている通路の片方を向いて指差し、そこから探し出して欲しいと言おうとした瞬間、平服姿の曹操が視界の隅に入った。なので夏侯惇は曹操の字を大声で呼んだ。
だがそれが聞こえたらしい曹操は、すぐに夏侯惇から逃げる。しかし夏侯惇は「孟徳!」と地を這うような重い声を出した。それを聞いた于禁は、思わず背筋を凍らせる。
「何をしている、于禁! 追うぞ! 必ず孟徳を捕まえて、溜まっている竹簡を何とかさせるぞ!」
「は、はい……」
夏侯惇は猛スピードで曹操が逃げた先へと走って行ったので、于禁はそれに着いて行くように走る。だが夏侯惇の足はかなり速いようで、距離は縮まらなかった。
「孟徳!」
曹操は夏侯惇の足の速さに驚いたようで、途中で足がもつれかけていた。だが負けられないと曹操は何とか体勢を崩さすに走り抜けた。
それから数十分経つと、夏侯惇だけは曹操へとようやく追いついていた。疲れている様子の夏侯惇は怒った様子で、近く居る兵を呼び出して執務室へ連行するようすぐに命令する。
「夏侯惇よ……素早いな……前より、ずっと……」
「ええい、やかましい! 遊ぶな、仕事しろ!」
夏侯惇は疲れ気味の曹操を睨みつけると、曹操は兵に連れて行かれたのであった。
そこでようやく于禁は夏侯惇に追いつく。息をかなり切らせていた。
「お役に立てなかったようで、申し訳ありませぬ……」
「大丈夫だ。巻き込んですまなかったな……執務室に戻ったら、孟徳は縄で椅子に縛り付けて仕事させないとな」
先程の怒った様子とは一変し、夏侯惇は平静を取り戻していた。息はを切らせながらも。
「そこまでなさるのですか……」
「そこまでしないと、孟徳は手に負えない時がある……そうだ、今回の礼としての日を作るよう、こっちで調整しよう。今度必ずな」
二人はそこでようやく呼吸が落ち着き、誰も居ないのか辺りは静かになった。
「いえ、そこまでは……」
だが口を開いた于禁は、夏侯惇の提案を断ろうとしているようだ。なので溜息をついた夏侯惇は、于禁の左手を左手で持ち上げる。
「だから、俺もその日に合わせて時間を作る。約束だ」
夏侯惇は右手の小指を立てると、于禁の右手の小指と絡ませた。それを見た于禁は少し微笑むと、釣られて夏侯惇も微笑む。
「はい」
そして数秒後、絡ませていた小指を名残惜しそうに離すと、二人はその場で別れたのであった。
だがその直後、二人の近くを兵が通りかかった。そのときに夏侯惇が言った「丈夫な縄を大量に用意しろ」という声が聞こえ、于禁は顔を青ざめさせたが。