春の熱
陽は何時間も前に沈み、雨がしとりしとりと降る頃のことだ。昼間は暑いが、朝晩はまだ少しだが冷える時期である。
于禁よりも遅く帰宅して入浴をしている夏侯惇だが、気温の低さからシャワーの湯の温度を高めにしてしまったらしい。浴室から出る前には少しのぼせてしまっていた。だからか浴室から脱衣所へ移動するが濡れた体を拭いてから着替える気力が出て来ない。目の前には、下着と寝間着があるというのに。
夏侯惇は髪を乾かさず、腰にタオルを巻いてバスタオルを手に持つと、浴室から出てリビングのソファに直行した。そして背もたれや座面へ持っていたバスタオルを敷くと、その上にどかりと座る。
「……風邪を召されますよ」
既に寝間着姿の于禁はちょうどキッチンの冷蔵庫の中身を確認しては、スマートフォンのメモアプリを利用して足りないものをメモしている。そこで夏侯惇がそのような行動を取ったので、溜息混じりにそう注意した。だが夏侯惇はそれにあまり従う気はないようだ。
「少しだけだからいいだろう?」
夏侯惇はそう言うがずっとこのままだろうと思った于禁は、冷蔵庫の扉を閉めてメモをしている最中のスマートフォンをカウンターに置いた。そして部屋を出てものの一分後に、夏侯惇の下着と寝間着を持って夏侯惇の前へと向かって行った。それらは全て、先程夏侯惇が置きっぱなしにしていたもののようで。ついでに冷蔵庫からペットボトルの飲料水も出した。
「着て下さい」
「面倒だから後でな」
于禁は夏侯惇に下着と寝間着と飲料水をやんわりと渡すと、再び「風邪を召されますよ」と注意した。
「面倒だと言って……もう着るのが面倒だから、今から俺を抱け」
ペットボトルを開封して半分ほど飲んだ後にキャップで締めると、ソファの前にあるテーブルに置く。そして何か回避策を考え、思い付いた夏侯惇はそう言う。だがそれを聞いた于禁は、風呂上がり直後の夏侯惇よりも顔を急激に真っ赤に染めた。そして夏侯惇の火照った顔を見ながら、何も言わずに固唾を呑む。
「だが明日は重要な会議が朝からあるからな、程々にしてくれ」
「そ、それは……早くお休みになって頂かなければ!」
ハッとした于禁は気をしっかりと持つように首を激しく横に振ると、夏侯惇から完全に目を逸らした。まるで見てはいけないものをみてしまったかのように。
だが夏侯惇の『朝から会議がある』という発言があるまでは、于禁はその気に完全になりかけていたが。
「俺の言うことが聞けないのか?」
そこで立ち上がった夏侯惇は怒り気味に于禁にゆっくりと詰め寄るが、于禁は視線を合わせずに素早く後ずさりをした。顔の赤さは、まだ引かないままである。
「なりません! あ、あなた相手に、加減して抱いて欲しいなどと仰っても、できる筈が無いでしょう! 無理を言わないで頂きたい!」
于禁のその必死な言葉により、夏侯惇までも顔を赤く染めた。勿論、入浴直後によるものではなく。
「……分かった」
夏侯惇は立ち止まり、于禁同様に視線を逸らす。
そして互いに直視できない状況に陥ると、于禁はどうすれば良いのか分からなくなってきたらしい。カウンターに置いていたスマートフォンを取り、寝室へと向かって寝ようとした。しかし夏侯惇はそれを急いで止める。背を向け始めていた于禁に背後から抱き着きながら。
「待ってくれ、于禁。明後日は朝からの重要な会議は、今のところでは入ってはいないから……その……」
かなり珍しく発言を詰まらせた夏侯惇は、最後まで言いたいことを言えないようだ。相変わらず于禁の背中でさえまっすぐ視線を合わせられず、左右へと巡らせている。照れ隠しなのか濡れて冷たくなっている髪を梳くように、一瞬だけ頭を掻きながら。
「分かり……ました……」
背中からでさえも于禁の大きな鼓動がよく響き、そしてよく聞こえる。夏侯惇はそれを、愛おしげにひたすら聞く。すると遂には夏侯惇の何も着ていない体に冷えが襲ってきていたが、于禁の熱により相殺されていたのであった。