日常の話
ある平日。
于禁はたまたま定時である一〇八時ちょうどに退社する。今日は会社に着くなり休む間もなく多忙であったが、それをなんとか必死にこなしていた。だが今はデスクから離れ、会社のエントランスから出てから地下鉄へと向かっている。
いつもより機嫌の良い表情でスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを開いてメッセージを送ろうとする。勿論、その宛先は愛しくてやまない相手であって。
于禁は『今から帰宅致します』と入力し送信してから、メッセージアプリを閉じてからスマートフォンの画面を暗くしようとした数秒後、その相手からすぐに返事があったようだ。
ほんの僅かに慌てた表情を作りながら、メッセージアプリを開いてから返事を見る。そこには『あと二時間くらいしたら帰る』とあったので、了解という返事を送ってからメッセージアプリを閉じた。
その頃には地下鉄の改札へと着いていたので、スマートフォンの背面にあるICカードをかざして改札を通る。列車は約三分に一度の頻度で来るが、于禁が乗り場へと階段で降りて行くとちょうどそれが来る直前であったようだ。
既に並んでいる、何十人もの乗客の列に並ぶと列車が到着した。ぞろぞろと列車の中から吐き出される乗客、あるいは吸い込まれていく乗客を見ながら于禁も乗り込む。
列車の中は乗客で一杯であった。于禁はそれを少しだけ不快に思いながら、列車から降りた後のことを考える。
夏侯惇が家へと到着するのは、于禁とは二時間もの誤差だ。それならばスーパーで食料品を買ってから、夕食を作って帰りを待つ時間はあるだろう。そう考えた于禁は、何を作るか考えながら列車に揺られたのであった。
列車から降りると、作る料理を決めたらしい。駅から出てから、そこの近くのスーパーへと行くと食料品を幾つか購入してから帰宅した。その頃には一〇九時を回っていたが、夏侯惇が帰宅する予定の時間までは最低でも一時間の余裕がある。
スーパーで買った食料品の一部をキッチンに置き、スーツから軽装へと着替えている間に作る順番などを脳内で描いた。そしてキッチンへと戻るとすぐに夕食を作り始める。
夕食を作り終えた頃には、二〇時を軽く過ぎていた。だが夏侯惇はまだ帰宅していない。
ダイニングテーブルでの配膳などを終えた于禁は、リビングの部分のソファーに座ってからひと息ついた。そういえば今日は多忙であるからか、目を覚ましてから一瞬も休んでいないのを思い出しながら。
しかしそこで疲労にピークがきたのか、意識を失うように眠ってしまっていた。
「……きん、于禁」
于禁は夏侯惇の名を呼ぶ声で目を覚ました。反射的に飛び起きてから立ち、夏侯惇の方を見る。
「も、申し訳ありません! お帰りなさいませ!」
「ただいま」
夏侯惇は于禁のリアクションに微笑むと、ダイニングテーブルの方へと腕を優しく掴んで引いた。その際にチラリと部屋の壁にかかっている時計が見えたが、たった五分の間眠っていたことが分かる。実際に、時計の二本の針は二〇時五分を示していたからだ。
「疲れているというのに、夕食を作ってくれてありがとう。ほら、冷めないうちに食うぞ」
于禁は夏侯惇の言葉に頷く。しかし席に着く前の夏侯惇は于禁に一つ言い忘れていたことがあったようだ。正面の席に座ろうとしている于禁を止めると、夏侯惇はそれにぐっと近付く。
「褒美だ」
夏侯惇はそう言うと背伸びをしてから、于禁と一瞬だけ口付けをした。それも、唇同士がほんの僅かに触れる程度。
だがそれは、于禁にとっては行き過ぎた褒美にしかならなかったらしい。顔を朱色に染め、口元を片手で覆い体を震わせる。口付けされたことによる恥ずかしさや照れからか。
「礼を言っただけだろう?」
夏侯惇はニヤリとしながら問い掛けるが、于禁は無言でただ頷くのみ。なのでか夏侯惇はその様子を、可愛らしい対象物として見ていたのだった。
そして、于禁のその顔は夕食が終わってもなお変わらないでいて。