雨音の中
朝から少しの雨が降っていたが、夏侯惇が退勤する二〇時前には土砂降りであった。雨粒がアスファルトを叩き付ける音がかなりうるさいほどに。
会社のエントランスの屋根の下に夏侯惇は出る。降っている雨を見ながら溜息をつくと、傘を開いてそこから歩いて帰路につこうとしていた。いつもは車で出勤しているが、昨日に定期点検に出していたので明日までは徒歩での出勤だ。
家や会社の近くにある地下鉄を利用しての出退勤でも良かったが、夏侯惇が利用する時間帯は大抵利用客が多いので、面倒なので候補から外している。それに于禁が夏侯惇一人で地下鉄を利用することに対して「痴漢に遭ったらどうするのか」と、今降ってきている雨粒といい勝負になるくらいにうるさく言ってきていたからだ。夏侯惇は冗談なのかと返したが、于禁は過去の男性が被害に遭った痴漢の事例をとても細かく説明し始めたので、適当に頷いて中断させていた。聞くのがとても面倒になったのか。
しかし、地下鉄の利用が駄目ならば後は徒歩かタクシーくらいしかない。前者の徒歩での出退勤は、于禁の言う痴漢に遭う可能性は確実に皆無ではない。だが于禁はそれを推奨していた。何でも健康の為に良いとか言っていたが、そのようなことは夏侯惇でも分かっているのでそれも適当に返事をしていた。
そして後者のタクシーは痴漢など起きる状況など無いが、利用しなければならないほど家までの距離はそこまで長くはない。
実際に会社と家までは徒歩でおおよそ二〇分。夏侯惇は少し考えた後に徒歩で帰路につくことにした。消去法で。
だが歩き続けるのに特に物理的な支障がある訳ではないが、この土砂降りだ。それに周囲が林のように高層ビルに囲まれているとはいえ、外が暗い時間帯というのには変わりない。夏侯惇は視界から捉えられる情報だけでも、歩いて帰る気力が大分削がれてきていた。
意を決して、とは大袈裟だがそのような気持ちで、エントランスの屋根下から出ようとしたとき、夏侯惇の名を呼ぶ声がしたので振り返る。
「夏侯惇殿!」
名を読んだのは于禁であった。そして片手にはジャケットと通勤鞄と傘を持っていて、ワイシャツ姿でかなり急いで夏侯惇の元へと向かうと、追い付いた後に忙しなくジャケットを羽織って持っている傘を開いた。
「追い付いてよかった……」
安堵するように切らした息を吐き続けると、すぐに呼吸が落ち着いたらしい。いつもの冷静な様子へと戻っていく。
「退勤時間が近いのなら、連絡してくれれば俺が待つというのに」
「いえ、私があなたを待たせる訳には……!」
「前のように、そこまで律儀にならなくていい……ほら、一緒に帰るぞ」
夏侯惇は于禁の返事を待たずにエントランスの屋根から出ると、雨粒が傘にも叩き付ける音が聞こえ始めた。続いて于禁もエントランスの屋根から出る。夏侯惇は雨音のうるささに顔をしかめながらも、足を進めた。
そこから二人はひたすら無言であった。しかし沈黙が流れることに特に気まずいとは思ってもいないらしい。なので二人の聴覚は雨音と、周囲の歩く人々の靴が鳴る音だけを拾って。
ある程度足を進めると、人通りがまばらになってきた。ビル群ではなく住宅や営業時間の終了した店舗が立ち並ぶ通りへと入った。そこで夏侯惇がようやく口を開くが、特に重々しい様子は全く無く。
「于禁」
「はい、なん……」
于禁が返事を言い切る前に、営業時間が終了していて人気のない店舗と店舗の間、通りからはちょうど死角になっている物陰へと夏侯惇は引き寄せた。というより、強引にそこへ引っ張って寄せた。
「い、いかがなさいましたか……?」
街灯のおかげで于禁の、唐突のことで驚いて呆けた表情がよく見えた。夏侯惇はそれを見てクスクスと笑う。
「なぁ、雨の降る街中で、誰かが見ている可能性のある場所で、ここで、お前からキスをしてくれないか?」
夏侯惇は静かに言うと于禁を人気のない店舗の軒下に詰め寄った。そして通りの方を、持っている傘で二人を隠すように向きを変える。そうすると夏侯惇が雨に濡れてしまうので、于禁は自分の持っている傘を動かした。しかし夏侯惇は傘の中に入れても、傘を持っている于禁が傘に入れない。なので夏侯惇にグッと近付いて同じ傘に入る。
「俺に、したくないのか?」
夏侯惇はわざと上目遣いで于禁を見る。そうすれば、于禁が大抵の言うことを聞いてくれるのを前から知っているからか。
「いえ」
首を大きく振った于禁は、夏侯惇の顔へと近付く。そして唇同士が微かに触れる程に付くと、そこで于禁は顔を離した。だが夏侯惇は物足りないというような表情をしている。
「後で望むままにしますので、やはりここでは……」
「駄目だ」
夏侯惇はすっぱりと切り捨てるようにそう言うと、于禁の胸倉を掴んで唇を合わせた。
よく聞こえる屋外での独特の雨の音に混じり、二人の漏れる吐息が聞こえた。すると経験したことのないシチュエーションに、于禁は興奮してしまったようだ。それに気付いた夏侯惇はわざと太腿で、于禁のスラックス越しでも目立つそれをぐりぐりと擦るように押す。
その雨の音を聞きながら見るには合わないような、夏侯惇の瞳からは情欲のみが見えていた。それを見た于禁は更に興奮してきたようだ。夏侯惇に太腿でぐりぐりと擦るように押されたそれは、雨で濡れた訳でもないのに円の形に濡れ始める。
「もうすぐ家だが、俺を待たせるなよ?」
そう言って夏侯惇は自分の持っている傘の向きを変えると、再びうるさい雨粒を受けるために差すと于禁から離れる。
「やかましい雨音はもう聞き飽きたからな」
「……では、その雨音に負けないくらい、あなたが息をつく暇もないくらいに啼かせてあげますよ」
すると于禁の瞳も伝染したかのように情欲のみが見え始めた。それを夏侯惇は愛おしげに見た後、于禁の手を引いて物陰から出たのであった。